旧街道帰省ライド [長尾街道-東高野街道]
パゾコンの設定を頼まれ、今日は枚方市の実家に行くことになった。7:00過ぎにTORACLE-COZ(CARACLE-COZ RB試作車)で自宅を出走したものの、まっすぐ向かうのも面白くない。最近、実家の近くを東高野街道が通っていることに気付いたので、それを辿ることを思いついた。まず、金剛生駒山系の山麓を走る東高野街道までどうやって辿り着くか? ついでにアプローチにも旧街道を辿ることにして、あまり遠回りにならない長尾街道に白羽の矢を立てた。
どうせなら長尾街道の起点からスタートしようと、堺市中心部へ。最低気温の予報は7度と先週までに比べればずいぶん暖かい。ウェアも少し薄手にして、アンダーも1枚のみ。カイロも省略したが、さほど寒くはない。チンチン電車の走る大道筋にたどり着いたが、ここも旧街道である紀州街道の一部でもある。
長尾街道は紀州街道の堺戎之町、今のザビエル公園(戎公園)近辺が起点とのこと。
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが滞在した豪商日比屋了慶の屋敷跡につくられ、公園開設の1949年がザビエル来航400年であったことから、命名されたとのこと。
長尾街道は古代には大津道と呼ばれた官道で、最古の官道である竹内街道の北側に整備され、堺からほぼ真東に伸びている。7:40頃起点を出発し、堺の中心部を抜けて堺東駅の北側で南海高野線をくぐる。
地下道入口前の看板にあるように、ほどなく先日もお参りした方違神社があるが、今日は素通り。
この先は自動車進入禁止の商店街。旧街道は自動車やオートバイでは通過が困難な一方通行も多く、徒歩か自転車でないと辿れない箇所がよくある。もっと言えば、先ほどの地下道のように自転車ですら乗車して通れないこともある。こんな時に6kg台のCARACLE-COZなら気軽に押し歩きできる(というか、わざわざ通路端のスロープを押し歩くより、ひょいと担いで階段を上り下りしてしまう方が楽)。この冬はロードペダルでなく、SPDペダル&シューズなので、歩くのも苦にならない。
時間に制約があるので、あまりのんびりとはしていられない。時間の制約があるので、できるだけペースを上げて走ったが、交通量がそこそこ多いので道端に道標や祠を発見しても急に止まれない。通過したところが多かったのが残念だが、堺市内はいつでも再訪できるだろう。
20分ほどで市境を越えて松原市に入り、西除川を渡る。すぐに、近鉄南大阪線布忍駅南側の踏切を渡る。職場に近いこの辺りは通勤で通ることもある勝手知ったるエリアだ。
松原市役所の南側を過ぎてすぐに、ちちかみはしと刻まれた道標とそれを解説するモニュメントが立っている。そばの郵便局に立ち寄る際に通るので、今まで何十回と前を通過していると思うが、じっくり見るのは実は初めて。
授乳時に愛児に乳房を噛み切られて亡くなった母親の悲しい伝説が残る地とのこと。亡くなった母親と愛児を祀る歯神社が、松原駅の南にある柴籬神社に合祀されているので、次の機会に訪ねてみよう。
モニュメントには長尾街道は近鉄電車が通るまで栄えたとの記述もあり、並走する近鉄との縁も感慨深い。
松原駅のすぐ北側の阿保茶屋(あおんちゃや)。市役所など近辺の町名にも阿保の地名が残るが、こちらは「あお」と呼ぶ。元々は平安時代の阿保(あぼ)親王が干ばつに苦しんでいた当地に「親王池」を作ったことに因むらしい。同じ漢字を色んな読み方をしているが、なんとしても「あほ」「あほう」と読むのを避け、にんべんのない「阿呆」と混同されないようにしていると感じるのは私だけだろうか?
阿保親王は歌人在原業平の父親とのこと。最近始まった日経新聞夕刊の連載小説の主人公が業平であり、縁を感じる。
長尾街道と中高野街道が交わるこの地は古代、中世から往来が多かったのだろう。交差点付近には地蔵堂と共に、近代の日露戦役記念碑や昭和天皇の即位を祝った碑や満州事変の忠魂碑なども立ち並んでいる。一番手前には現代の公共掲示板も立ち、今も続く重要地点ぶりを伺える。
中高野街道を南に1kmちょっと進めば、今度は竹内街道と交差する。松原が古代からの交通の要衝であったことが認識できる地だ。
東進を再開し、東除川を渡って羽曳野市に入り、雄略陵古墳(島泉丸山古墳、高鷲丸山古墳)の北側を通る。こちらも日経新聞朝刊で連載中の小説「ワカタケル」の主人公、雄略天皇の陵墓と推定されていた(最近は他説が有力)。立て続けに日経新聞絡みの史跡。
すぐに藤井寺市に入り、数百メートルでこの丁字路にぶつかるが、ここが古市街道。長尾街道の元となった古代の官道大津道は、ここを直進していたのかもしれないが中世以降はやや南にずれたらしい。
「右いせ(伊勢)」の道標に従って500mほど古市街道を南に進み、再び東に転じて先に進む。
旧街道ではあるが、今でも藤井寺市役所の裏手や、西名阪自動車道の藤井寺ICの入り口と言った現代の重要地点を通過していく。今では、並走する府道堺大和高田線が車中心の交通の主役になっているが、長尾街道の歴史的役割を実感させられる。お蔭で大阪外環状線(国道170号線バイパス)を渡れず、歩道橋を迂回させられたりもしたが(^_^;)。
国道170号線旧道を渡ると市野山古墳(允恭天皇陵)。かなり大きいので、狭い街道の反対側で撮影しても全体が写らない。向こうに生駒山系の信貴山辺りが見える。そろそろ山麓だ。
時刻は8:40で、起点からちょうど1時間でここまで来たことになる。住宅地内の静かな交差点だが、かつては往来で賑わったのだろう。
交差点の南東には「右 道明寺」と刻まれた道標が残っている。南下して府道堺大和高田線と近鉄線を越えればすぐに先日参拝した道明寺天満宮だが、今日はここを北上する。
石川の堤防上に出て、自転車道南大阪サイクルラインを進んでいくと、ほどなく大和川との合流点。
少し東にずれ、安堂交差点から国道170号線旧道に入って北上する。東高野街道のルートはほぼ大阪府の歴史街道ウォーキングマップに従ったが、この先四條畷までは国道170号線旧道か、それに並走する旧々道を辿ることになる。
史跡の多いルートで、右手に鳥居が立っていることも多いが、10:30までに実家に着くと伝えていたので、いちいち立ち寄っている余裕はない。ぶどう坂への上り口大県南交差点も、八尾市に入って十三峠への登り口の大竹付近も、止まることなく素通り。
それでも、道沿いに史跡があれば脚を止めるつもりで、できるだけ国道から外れる細道にも入るようにした。とは言え、速度を上げているので、ちょっとした祠や道標に気付いたときには行き過ぎてしまっている。車が多いところは急停止もできないし、引き返すも億劫。抜かれたロードバイクに追いすがったこともあり、結局、柏原市、八尾市は完全に素通りだった。
東大阪市に入り、事前に「ここには寄ろう」と決めていたのが、瓢箪山稲荷神社。東高野街道(国道170号線旧道)に面して、すでに鳥居と縁起を掲げた祠がでんと建っている。
100mほど東に入って、境内へ。瓢箪型の古墳を背に祀られ、日本三大稲荷のひとつにして、辻占の総本山。稲荷といえば商売繁盛のご利益が典型だが、ここは恋占いの総本家。時代劇で子供が「恋の辻占~♪」と恋占いを売り歩く姿を見かけた方もあるだろう。もっとも、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」という辻占の歌は、明治以降のものらしい。子供の売り歩く江戸時代の辻占とはルーツが違うとのことで、時代劇ではこの2つが混同されているようだ。
さすが三大稲荷だけあって、東高野街道を通る際に一度立ち止まって社の方向に手を合わせている地元の方を何人も見かけた。恋を卒業された年齢の方が大多数だったので、恋以外も霊験はあらたかなようだ。
本殿で商売繁盛の祈願をして、本日は辞去。機会を改めて境内の奥も参詣したいものだ。
近鉄奈良線瓢箪山駅東側で線路を渡ると、国道上にアーケードを設けた瓢箪山中央商店街。自転車乗車禁止なので、以前来た際には迂回したが、今日は東高野街道を辿るために押し歩き。週末だけ開けているというがらくた屋(失礼)にも人だかりができている賑やかな商店街だ。
商店街を抜けると東高野街道は、しばらく国道の東側を並走する。新石切駅前にあったのが石切藤地蔵尊。大阪夏の陣で首が行方不明になり「首無し地蔵尊」と呼ばれるようになったが、以来病気平癒のご利益が増したとのこと。石切神社に寄る余裕はないので、道沿いのこのお地蔵様だけでも撮影。
東高野街道は石切の北で国道に戻り、大阪産業大学を越えたところで再び分離して東側の細道になる。
その区間で野崎観音への参拝道と交差したが、タイムリミットまであと30分となれば、寄っている余裕はない。
国道に戻り四条畷駅そばで四條畷神社への参道と交差するが、こちらも素通り。
国道163号線と交差する中野付近は、国道の西側に外れ、忍ヶ丘駅付近までジグザグの細道となる。母校の四條畷小学校付近だが、思い出に浸る間もなく急ぎ足で通過。
中野付近から国道170号線は西寄りの経路を取るので、ここからは府道20号線(とその旧道)に重なる部分が多くなる。
忍ヶ丘駅北側でJRの高架をくぐったところで、分岐を行き過ぎた。すぐ合流するのでそのまま府道(旧道)を進もうかと思ったが、思い直して引き返した。その甲斐あって、こんな大石と道標を発見。大日さんの大石と言われているらしい。近くの大日橋で牛が止まったので調べると、この大石が出土したとのこと。
寝屋川市に入って高倉で府道の東側に外れて急坂の細道を駆け上る。府道との合流点にあったのが、二月堂石灯籠。「当地には「柳谷・二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも、三月のお水取りのころには、東大寺二月堂に参詣する」とのこと。
東寝屋川駅近くで府道から少し外れたところにあるのが、この打上の四ツ辻。東高野街道と奈良伊勢道が交差する地に建てられた道標とのこと。
府道(バイパス)と交差した先にあったのが弘法井戸。祠の下の小さな泉だが、どんな日照りでも枯れることが無かったそうだ。現在はごく僅かなだが清水が湧いていた。
実家に近い星田駅で、今回の東高野街道探索終了。ここから、南山根街道を経て実家に向かう。
途中の寝屋集落にあるのが、寝屋長者屋敷跡。10:30の約束を過ぎたが、ここまで来たらちょっとだけ撮影。
先程の寝屋川市の史跡のそばで解説を持って立っているのが、鉢かづき姫。寝屋川市のマスコットキャラクター「はちかづきちゃん」のモデルでもある。
母の遺言で大きな鉢を被って過ごした姫が、継母に家を追い出され、苦労の末に多くの財物を得て幸せな結婚をするというおとぎ話をご存知の方も多いだろう。その初瀬姫の生家である寝屋の長者、備中守藤原実高の広大な屋敷があったと伝わるのがこの地だ。
約束から10分ほど過ぎてしまったが、10:40頃実家に到着した。パソコンの設定を終え、実家を出発したのは14:30過ぎ。暗くなる前に帰宅するために、帰路は最短ルートをiPhoneのナビアプリで探索し、ほぼナビに従って進んだ。第二京阪道路の側道とその延長で鶴見緑地の南側に至り、ジグザグと南西に進んでいく。
再出発直後の寝屋交差点付近で、タチ川(傍示川)と北谷川が合流して寝屋川となる。寝屋川は一旦北側に離れていく。直線的に進んだ私と、南に転じて戻ってきた寝屋川は、寝屋川南IC付近で一度交差した。今度は大きく南に回り込んだ寝屋川と、今里筋東側の新喜多橋で再び交差。この後、寝屋川は大阪城付近で大川に合流して大阪湾に注ぐ。
ジグザグ経路に戸惑うこともあったが、北からの追い風に乗って概ね順調に南下した。
森ノ宮駅付近からはJR大阪環状線に沿って南下。ところが、鶴橋駅付近で問題発生。ここを通れと言うのかGoogleマップ?
別に無理に通らなくても良いのだが、気分転換に自転車を押して商店街を通過(笑)。相変わらずの賑わいで、押しても自転車の通過はかなり厳しい。結局、入り組んだ商店街でルートを見失った(汗)。西側に抜けて南下を再開。
寺田町駅付近から間道を抜けてあびこ筋に入り、後は勝手知ったるルート。往路の長尾街道と地下鉄北花田駅の南側で交差し、最後に西高野街道を少し走って旧街道づくしの一日も終わり。帰宅したのは16:30過ぎで、変な寄り道をしなければ、約2時間で実家と行き来できることがわかった。
先週も脚が回るようになったと感じていたが、今週もかなり復調してきたことを感じた。トレーニングを重ねていた時期の瞬発力や持久力には到底及ばず、ちょっとした上りで失速してしまうのでまだまだだが、ほぼ90kmを走ったのも今年初めて。手術跡の経過も悪くないので、この調子で暖かくなるならそろそろ峠にも行ってみようかと思う。この冬は旧街道や史跡巡りなど、ツーリング要素が高かったが、そろそろトレーニング要素を高めていこう。
■コースマップ
■#relive
Relive ‘190223 旧街道帰省ライド [長尾街道-東高野街道]’
■本日の走行記録(自転車)
CyclemeterGPSの記録
スタート: 2019/02/23 7:12:12
自転車完了: 2019/02/23 16:32:50
バイクタイム: 3:43:42
停止時間: 5:36:30
距離: 89.14 km
平均スピード: 時速 23.91 km/h
登り: 66 m
カロリー: 2512 kcal
平均心拍数: 128 bpm
最大心拍数: 167 bpm
平均ペダルペース: 62
最高ペダルペース: 134 pm
今月の走行距離: 665 km
今年の走行距離: 1326 km
先月の走行距離: 661 km
昨年の走行距離: 7965 km
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